ストラテジック・コミュニケーション・デザイン

本質に迫る、日々の気づきとインサイト。

「SNS疲れ」、「Facebook疲れ」を超えて

 

Facebookリア充のメディアなんていわれることが多いでしょうか。

ぼくは、知人や友だちの近況を垣間見るというよりも、関心のある商品やサービスのアカウントが投稿するニュースを見ることにウエイトを置いた使い方をしています。ひとつのネットニュース、メルマガ的な位置づけかもしれません。

友だちや知人が投稿した内容に対して、「いいね!(ええやん!)」あるいは、「コメント」を残さない(ノーレス)ことに対する罪悪感がストレスになり、それが「疲れ」につながるという構図でしょうか。

このような状況にならないために、僕は、適当なタイミングでたまに何かしらのレスポンスを返すというスタンスを取っています。何かのアクション、足跡を残さない限り、心の中であなたのことをしっかりと気にかけていますよと思っていたとしても、そんなことは相手にはわかる由もないわけですが、面倒なものは面倒はわけです。Facebookが唯一のコミュニケーションツールというわけでもなく、たとえば、各人が「Facebook重視度」のようなものを可視化できるようにするというのはどうでしょうか。

この記事を書いていて、ふと、mixiを楽しんでいたころを思い出しました。あのころは

mixiというサービスがとてもとても新鮮で、空き時間や仕事から帰ってきて家のパソコンでmixiを開くという生活スタイルが当たり前になっていたような気がします。

 

最近はSNS疲れを超えて「ネット疲れ」「情報疲れ」「スマホ疲れ」をしている自分がいます。

PCやスマホでアクセスする先が非常に限られてきているなと感じています。

 

ブラウザベースで考えると「ヤフー」と「スポーツナビ」。

この2つ以外、ほとんどアクセスしないような。

 

アプリベースでいうと「 iLunascape Webブラウザ」、「You Tube」、「LINE天気」、「Today is」、「ZOZOTOWN」、「WEAR」、「evernote」、「駅.Lucky」、「まりもちゃん」あたりでしょうか。

 

全体的にブラウザ時代からアクセスしていたサービスに帰結している感が強い気がします。

ネットニュースで見かけて気になったものをとりあえずダウンロードしてみたはいいものの、アクセスしてみたら、会員登録を求められた時点でもう閉じてそのまま放置されているアプリも多いですね。

 

スマートフォン向けアプリの平均ダウンロード数は38であるのに対し、実際に週1回以上利用しているサービスの数は8つに留まっているとのことです。

 

出典:

スマホ時代の“中心のない”ポータル目指す「Syn.」構想--KDDIら12社が発足 - CNET Japan

 

 

ネットで感動を与えることはできない。

時間とココロのスキマを埋める作業に使われている。

「孤独」と「ストレス」を増幅させる装置としての側面のほうが強い。

ただし、「知的探究心」という欲求が衰えることがないのであれば、

ネットを活用した検索ニーズが衰えることは考えられないかなという気がしています。

 

モノ、サービス、アプリ、情報が溢れてしまった昨今に、人を動かすのは

やはり、感動産業ということなのかもしれません。

・・・と思う今日この頃です。

コンテンツの洪水がもたらした超個人的な弊害

 



15年前のぼくはこんな面白いCM、こんなおされな映像をいつか作ってみたい!と思っていた。

しかし、ここのところ、このようなコンテンツに触れるたびに(すべてがそうではないけれど)うっとおしく感じてしまう自分がいる。

 

あってもなくてもどっちでもいいよ、こんなコンテンツ。

 

このような心境の変化は、ヤフコメだったり、You Tubeだったり、まとめサイトだったり、pixivだったり、プロではない個人個人が自分の意見や作品を投稿する機会が増え、その意見や作品の洪水被害に毎日見舞われていることと無関係ではないと思っている。

当たり前だけれど、その大部分がどうでもいいコンテンツだったりする。

そして、この記事にも書かれているけれども、「(うんざりするような)ばかばかしさやくだらなさ」が価値を帯びるトレンドが発生していることも無関係ではないと考えている。

 

このような作品をひとつ作り上げるのにどれだけの苦労があると思っているんだ!というお叱りを受けるかもしれない。けれど、ぼくは目の前に出された料理が美味しいかどうか。それしか望んでいない。裏側にあるプロセスに興味はない。作った本人が勝手に努力して勝手に苦労しているだけだ。

 

ただし、「美人やカワイイは正義」という考え方には同意もするし共感もする。

オリエンタルランドのように、ただ1位を目指すのではなく、ダントツの1位を目指したり、突き抜けた強さを追求していくという戦略をぼくは今のところ支持している。

監督の重要性

 

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現場(選手・プレイヤー)からすると、オーナーや監督が具体的な方針やディレクションを示してくれないと非常に苦しい。

それがないと、どのように努力や準備をすればよいのかがわからないからだ。

それが決まることによってどのような努力、準備をし、どのようなスキルを身につけなければいけないのかが明確になっていく。

 

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フロント、監督、選手が三位一体となったチームは強いとよく言われる。

 

野球は選手の力が大きい気がする。

野球はポジションによる役割や、そのときの状況に何をするべきかという選択肢が

ある程度限定されるスポーツだし、自己判断でも動ける部分が大きい。

 

サッカーは監督の力が大きい気がする。

戦術の共通理解やコンビネーションの質が野球よりも非常に問われるスポーツだ。フィールドに立つ11人がばらばらに動いていてはサッカーにならない。それをディレクションし、オーガナイズしていくのが監督の重要な役割になってくる。

 

 

下記に、「わかるなそれ」っていう記事から引用させていただきます。

 

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本来、そうした状況の中で「やる」か「やらない」か、やるとしたら「どんな方向に進むのか」を判断するのは社長と役員の仕事です。英語で役員のことを「director」というように、方向(direction)を決めることは役員の最も重要な仕事です。会社の通常の業務は課長以下でだいたい回ります。データがなくて分析もできないようなときこそ、経営陣が前に出て決断しなければなりません。

 ところが、最近の日本企業の経営陣は相当疲弊している。バブル崩壊から四半世紀近く、ほとんどの日本企業がやってきたのはコスト削減と効率化です。つまり、何にも新しいことをやったことがない人たちが経営陣の大部分を占めているんです。

 現場が何か新しいことをやりたいと提案すると、「他社の動向は?」「もう少しデータを集めてくれ」「案は3つか4つくらい必要だ」などと言われる。やりたいことが新しければ新しいほど、これらのリクエストに応えることは難しい。結果、判断は先送り、結論は出ません。つまり「石橋をたたくだけで、渡らない」わけ。だったら、たたくなよ。ムダですよ。日の目を見ないプロジェクトの説明資料をそろえるために、現場がどれくらい時間を費やしているかを考えてみて下さい。

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出典:

「顧客ニーズ」はもはや崩壊している:日経ビジネスオンライン

 

マクドナルドを立て直すためのジャストアイデア

 

最近、マクドナルドが不振というニュースをよく見かけます。

その不振の要因について分析しているブログなどもよく見かけます。

それはそうだなと思うこともあるし、それは違うんじゃないかと思うこともあります。

小さいころは僕にとってマックは「ご馳走」でした。ハッピーセットについてくるおもちゃが欲しくて・・・ということではなく、あの店内のハンバーガーのにおいが新鮮で、ハンバーガーならではの「洋食感」が、家の食卓に和食しか並ばなかったあの当時の僕にとって憧れとして映っていたのではないか。そんな気がしないでもありません。

 

そこで、今回はマクドナルド復活のためのアイデアということで

無責任な思いつきアイデアをいくつか展開したいと思います。

 

■「残業で遅くなったら仕事仲間とオフィスでマックにかぶりつく」を文化にする。

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戦略課題を「失った男性サラリーマンたちの再取り込み」と仮定してみます。

マックデリバリーの強化策として、夜中のオフィスで働くサラリーマンに重点的にアプローチ。

会社で仕事が遅くなり、こりゃ徹夜だなという空気がオフィス内に流れ始めたときに「ピザでも頼むか。」というシーンをぼくは少なからず経験してきました。仕事で集中力が切れて味覚もおかしくなっている男性サラリーマンにこそ、ジャンクフードとしてのポジションが威力を発揮するかもしれません。このようなシチュエーションでは健康もくそもありません。仲間と笑いあいながら、ガッツリと食えて新たな集中力を生み出せることこそが重要です。

なので、「もうひとふん張り!オトコの残業パック」なんてメニューはいかがでしょうか。タコスとかもよいですね。中の千切りキャベツが床に落ちるのは必至です。なんとなく単価も高く設定できそうな気もします。キンキンに冷えたビールもつけましょうか。

 

■「美味しくなって新登場!」を繰り返す。

ビールや発泡酒第三のビールの世界では「味」を頻繁にリニューアルしてリローンチを繰り返すという手法をよく行います。これはユーザーに飽きさせない、ブランドしての鮮度を高める、新たなファンを獲得する、流通に向けた配荷を促進するといった狙いがありますが、一言で言うと「トライアルの促進とブランドロイヤルティの強化」になるかと思います。美味しくなって新登場と言われると飲みたくなるのが人の性だからです。そして、飲んでみると美味しくなった感じがしてしまうという人間の心理をついた王道の戦略になります。これはビールの世界だけではない話かと思います。世の中の商品で、いつも変わらない美味しさを感じる料理があるとしたら、それは実は作り方や素材のバランスを変えたり、ブラッシュアップさせたりしていることが多いのです。マクドナルドはこのあたりができているのでしょうか。

かといって、実際は何も変えてないのに、こう謳うのは景表法違反になりますのでNGです。

 

■セブン&アイが買収する。

原材料から調理方法まですべてをドラスティックに変えることができ、オトナから子どもまでみんなが美味しいと感じる商品を提供できるようになるのではないでしょうか。

 

 

 

今日はこのあたりで失礼します。

「話題喚起」の指標

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「話題喚起」につながるプロモーションプランを考えて欲しい。

このような依頼は昔から今まで継続的にある印象。

 

この話題喚起とは、どういった状況をさすのか。

 

(1)メディアに多く露出される。

(2)個人のブログやSNS上でプロモーション商品の関連ワードがつぶやかれていたり、商品画像が登場する。

(3)人々が交わす会話の中にプロモーション商品のことが登場する。

 

(3)が正解だと思う。

(1)と(2)はそれをかなえるためのプロセス(KPI)という認識。

 

でも、仕事をしていると「メディア露出=話題喚起」のような

ニュアンスを感じることも少なくない。メディアがニュースとして発信することと

ユーザーが話題に上げることには大きな隔たりがある。メディア露出が大きくなることによって、その商品のことが話題になる可能性が高まることが予想されなくもないというレベルに過ぎない。

プロモーションしたい商品がマスメディアで多く取り上げられても、ネット上で多くつぶやかれていても、「その商品のことが人と人のライブの会話に登場しているのか」どうかということについては追跡できない(数値化できない/リアルに実感できない)と感じている。

プランナーとしては、ゴールが「話題喚起」なのであれば、ここが見えないと実は満足できなかったりする。

 

プライバシーもへったくりもないけれど、ネット上ではなく、リアルに遠くにいる人の会話もすべてまるわかりになって、それが可視化できるような電脳社会のような時代がやってくれば、「あ、みんなこの商品を話題にしてくれてるんだな。」という満足感が得られるのかもしれない。

 

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コンセプトの本質

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広告業界にいるとよく遭遇するコトバ。

 

“コンセプト”

 

コンセプトを設定する目的はただひとつ。

 

それは、「インナーの共通理解を図るため

 

これに尽きる。

 

ユーザーに対して作るものではない。

 

なぜなら、ユーザーはコンセプトに興味なんてないからだ。

言い換えれば、ユーザーはコンセプトが存在することを前提にモノやサービスに対峙しているわけではない。

 

この料理のコンセプトはなんだろう?

この電車のコンセプトはなんだろう?

この建物のコンセプトはなんだろう?

・・・

そんなふうに考えている人は日本中を探しても4人ぐらいしか

いないんじゃないかと思う。

 

ユーザーが興味があるのは目の前にあるもの、出されたものが

良いか悪いか。それだけだ。コンセプトに興味があるわけではない。

もっと具体的で、可視化できて、言語化が可能なものにこそ興味がある。

よって、インナー同士で「それいいね!」と決定したコンセプトも、カタチにできなければ、意味がないということだ。

 

おそらくコンセプトとしてよいものは、

人間の感情として発動する単純なものが良いと思う。

 

「かわいいものをつくる。」

「かっこいいと思わせる。」

「ワクワクさせる。」

 

このあたりは非常に明快で、インナーが意思統一が図りやすいと思う。

 

 

また、よく会議の中で意思統一が図りにくく、わかりにくくするのが、

コンセプトの種類だと思う。

 

全体コンセプト

プロモーションコンセプト

コミュニケーションコンセプト

ショップコンセプト

戦略コンセプト

演出コンセプト

 

この中では「全体コンセプト」は、あいまいだと思う。

「全体」というのは何を指しているのか?

 

コンセプトにも種類や領域があると思う。

 

「コンセプト決めようよ。」となったら、

「何のコンセプトを決めるのか?」についてあらかじめ明確にしておいたほうが

先々の作業ロスを最小限に食い止めることができるのではないかと思う。

 

ユーザーはコンセプトを自ら読み取ろうとは思っていない。

ユーザーに何かを読み取って欲しいのであれば、

開発すべきは「コンセプト」ではなく「メッセージ」ではないかと思う。

アンケート調査や市場調査の考え方

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仕事柄、ネットや文献で市場規模や意識調査、利用動向などのデータを調べたり、リサーチ会社に発注してデータを取ることもあります。

 

この類のアンケート調査や市場調査についてぼくが考えていることが4つあります。

 

1)“検証”の道具として利用する。

自分のアタマの中で考えた仮説や想定、正しいと思うことが“ほんとうらしい”かどうかを確認するために使っています。

 

2)偶然か必然かを見極める。

残念ながら、今でも「データにこう出ているじゃないか。」とか「記事にこう書いてあるじゃないですか。」といった低次元の会合に出会ってしまうこともあります。データに出ているから何なんでしょうか?そのような結果が出ているのはなぜなんですか?と聞いてみると回答に窮してしまうという。。

コンビニのオーナーを例に。たとえば、先週の土日はシーチキンのおにぎりがたくさん売れた。だから、今週は土日に向けてシーチキンのおにぎりをたくさん発注しよう。ということで、実際に多めに発注してたくさん並べたら、ほとんど売れなかった。

なぜ、先週の土日にシーチキンがたくさん売れたのか?そこに理由が見出せなければ、それはただの偶然だと思います。理由は作るものではなく、見つけるものだと思います。

 

3)アンケートに答えるという時点で“回答者の属性”ができている。

ぼくはこのようなアンケートに普段からあまり、積極的に答えたがりません。もともと自分の意見や考え方を自ら積極的に発信したり、みんなと共有したいというふうにあまり考えない性質です。そのアンケート自体の性格にもよると思うのですが、「アンケートに答える人=積極的、社交的な人」という仮説は無理があるでしょうか?たとえば、インセンティブ(謝礼がもらえる、など)と引き換えにグループインタビューに参加するような人はより社交的で好奇心旺盛な人ではないか?そんな気がしています。

 

4)基本的にあまり信用していない。

千葉県の人口は何人いるのか?といったファクトベース、デモグラフィック的なものはある程度「鵜呑み」にしてもよいのかなという気がしていますが、心理的(サイコグラフィック)なものについてはどうなんでしょうか。本人が「本当に今、考えていること」と「アンケートに答えたこと」との間にはとてつもなく大きな壁があるような気がしています。

 

自分が正しいと思うこと、主観を最優先にして仕事をしていこうというふうに

考える今日この頃です。当たり前のことだと思うのですが、昔と比べるとずいぶんと

妥協ラインを低く下げている自分への戒めとして。